「躾」という名の虐待を経験した。
どうして自分なんだろう。
なぜ私はこんな目に遭わなければいけなかったのだろう。
この経験は私の人生において何の意味があったのだろう。
虐待から逃れてなお、追いかけてくる暗い影に一体いつまで怯えなければならないのだろう。
10代の頃はいつも虐げられていた。
なぜ私は生まれてきたのだろうと何度も問うた。
普通の家庭がうらやましかった。
死にたいと毎日願った。
20代の頃はいつも悪夢にうなされた。
あんな経験したくなかった。
握りつぶされた夢や未来。
普通の家庭に育っていれば私の未来は変わっていただろうかと。
30代の頃はうまくいかない人生を嘆いた。
やりたいことがやれない。
私はいつまで苦しめばいいのだろうか。
このまま何もできずに人生が終わるのだろうかと。
40代になった今
やりたいことにチャレンジできるようになった。
ずいぶんとポジティブにもなった。
暗い闇は心の奥底に潜んでいる。
でも、その闇と共に歩む人生を選んだ。
闇は決して消えることはない。
でも今は静かに心の奥底に沈んでいる。
掻き混ぜればドス黒い感情が湧き上がるかもしれない。
あの日受けた仕打ちを許すことはできなくても
私を虐げることでしか自分を保てなかった継母の弱さを
今の私は「そうしなければ生きていけない人だったのだろう」と思いを馳せることができる。
虐待された日々は辛かった。
毎日毎日死にたいと思った。
でもその経験があったから得たものもあった。
冷たいご飯に水をかけて流し込む。
今は温かいご飯、好きな食べ物を食べられる幸せ。
服を着ることを許されず常に裸でいなければいけない。
今は好きな服を着て、しかもオシャレまでできる幸せ。
布団で寝ることを許されず眠ることも許されない。
今はふかふかの布団にくるまってぐっすり眠れる幸せ。
お風呂に入ることを許されず常に不衛生。
今は大好きなお風呂にゆったりと浸かってボディソープもシャンプーもお気に入りのものを使える幸せ。
雪の日に裸で外に出される。
今は温かいうちの中でくつろげる幸せ。
家の中に居場所なんてどこにもない。
今は大好きな人たちに囲まれてる幸せ。
誰かにとっての当たり前は私の憧れだった。
ご飯を食べるのも、服を着るのも、布団で寝るのも、お風呂に入るのも、当たり前に思えることの全てが、私にとってはこの上ない幸せ。
今ある日常の一つ一つを幸せだと思えるのは、虐待の経験があったからだと思う。
あの経験を無駄ではなかったと思えるようになるまで20年かかった。
いや、20年でそう思えるようになったのは早い方もしれない。
そうじゃなかったら、きっと生きている間中虐待という経験を恨み、そしてその恨みに縛られて自分の人生を呪いながら死んでいたと思うから。